内省的な自己反省

文字で伝えたいこと Twitter→@aoyagi_mmk

人生と、五条と夏油にキレている。

 

12月。死ぬかと思った。死のうと思った。死にたくなった。

大好きなアイドルが卒業した。11月に観に行った舞台で主役を張っていた女優さんが帰らぬ人となった。10代を捧げたバンドが解散を発表した。

容赦ない連勤。ハラスメント。弱るメンタルに委縮した脳で働く私。怒られる私。

だからこそ余計に12月23日深夜24時からの劇場版呪術廻戦0の最速上映が楽しみだった。それが唯一の支えだった。

 


劇場版の一番の目当ては夏油傑だった気がする。夏油傑が好きだからこそ、24日0時にこだわっていたのだと思う。

定時で上がり、その足でホテルに向かい、化粧を直す。

おろしたての服を着て、予約した美容院でブローをしてもらってから待ち合わせの場所へと向かう。夏油傑は舞台俳優か何かだったのだろうか。そんな疑問を抱きつつも、大好きなコンテンツのために足を運ぶための準備は楽しかった。好きな服を着て、髪を整えて、香水をひと吹き。舞台やアイドルを追いかけていた頃から何一つ変わらない。私はそんな非日常を心の底から愛している。

 


初めて見た回のことを、よく覚えていない。呪術廻戦本編における大本命の冥冥が突然登場してからの記憶が曖昧だ。その他唯一覚えているとしたら、家入硝子が意味深な台詞を残していたことだろうか。終わった後、ミッドタウンをぐるぐる回りながら謎にキレ散らかしていた記憶しかない。(※家入硝子についてはノベライズが見解を示している。解釈一致で非常に安心した。)

 


その後も1日1呪術と言いながら連日見続けた。とてもじゃないけれど、あの情報量を一度や二度で処理なんてしきれない。

夏油傑が好きと言っておきながら、ずっとずっと乙骨憂太について考察していた。

考察については以下の記事にまとめている。

https://netarinaiotome.hatenadiary.com/entry/2021/12/25/221828

乙骨憂太を取り巻く表象は、非常に凝っている。対比構造、台詞、映像学的な視点…見れば見るほど発見のある乙骨憂太と折本里香の関係に取り憑かれたように劇場に足を運んだ。もちろん原作は読んでいるけれど、声や動き、色が付くことによって初めて気づくこともある。それがすごく楽しかった。

 


異変があったのは5回目の鑑賞。ようやく映画の全体像が掴めた頃の話だった。

乙骨憂太と折本里香の考察も落ち着いたからだろうか。後半からずっと夏油傑について考えていた。ミミナナの「地図にも載ってない~」のところから情緒がおかしかった。

 


だってあんなに追い詰められて、自分と同じ境遇(=呪術が扱える)の子どもが虐げられているのを見たら、そりゃあ村一つ滅ぼすよね、と。そんなことを考えるようになってからはずっと夏油傑の視点で作品を鑑賞していた。夏油傑を照らす朝焼けが、悲しいくらい美しかった。

 

 

”悟の帳の中は夜で真っ暗なのに、傑の帳の中は朝靄?とにかくコントラストが薄くて、少なくとも夜とはかけ離れていて。白昼夢だったのかなあ?でも帳が解けた後の朝焼けは悲しいくらいに美しくて。目の前には親友がいて。どっちが夢でどっちが現なんだろう。―って思ったら涙止まらなかった”


”夢だったらいいのにな、逆夢だったらいいのになあ、”


”この世界では心の底から笑えなかった、とか、一連の行動とか、どうして彼は白か黒かでしか判断できなかったんだろう。それほど真面目だったんだろうけど、それが彼を苦しめたんだ せめてグレーという選択肢があれば どうして悟を頼らなかったの。”


(以上鍵垢ツイートより)


上映後、涙でぐちゃぐちゃになりながら電車の中でそんなことを呟いていた。劇中、傑の帳の色と空の色に気付いたところで涙が止まらなくて、気付けば悟がいて、いつの間にか里香は解呪していて、そのまま怒涛の勢いで逆夢が流れ始めて、私はずっと夏油傑が最期に見た朝焼けの色を思っていた。


どうしてこうなってしまったのだろう。何が二人を狂わせてしまったのだろう。私には分からない。


”悟が新宿の雑踏で躊躇したのは、少なくとも傑に負い目があるからなのでしょう、きっと”


”2017年って傑が呪詛師になってから10年なんだよな なあ、 10年も 10年も.....”


”最強と呼ばれているのに、傑の中での最強(に近しい定義)になれなかった 何者にもなれなかった悟.......? だから頼りのない僕もいつか〜なのか”


”あなたが望むならこの胸を射通して(傑視点)

頼りのない僕もいつか何者かになれたら(悟視点)   か、”

 

呪術廻戦というコンテンツと出会ってから約一年。思えば、私は夏油傑という存在からずっと目を逸らしていたのかもしれない。

夏油傑は、私が初めて呪術廻戦という作品に触れた時に最もしんどくて好きだったキャラクター。当初は創作も夏油傑をメインに行うつもりだった。


けれど彼等のあまりの過酷な運命を処理しきれず、私は夏油傑のことを考えることを放棄した。記憶の奥底に深く沈めた。今回映像化したコンテンツに足繫く通い、考察を繰り返してようやく彼のことをほんの少し理解できたのだ。呪術廻戦のアウトプット(=創作)は専ら百合なので、夏油傑に関しては新規も同然だった。


五条悟と夏油傑について考えるとずっと苦しい。けれど同時に、現実逃避特有の浮遊感を私に与えてくれる。


少し私の話をしよう。

私はこの一年間ずっと百合夢を書き続けてきた。それに関連してなのか、諸々も自覚をした。これは社会人になってからだ。女子校女子大と温室で育ってきたからなのか、自分のことを疑問に思う機会がなかった。それはまるで、本当は左利きなのにずっと右利きだと勘違いしていて、ある日突然左手の方が上手くペンを使いこなせることに気が付いたものの、当然のように右利きの人を中心に世界が回っていることに怒りを覚えることに近かった。


「好きな人はいるの?」「結婚は?」「いい男の人いたら紹介するよ」「〇〇さん(男性の先輩)とかどう?ここで浮いた話があれば楽しいのにな」


全部全部、会社の飲み会で浴びた言葉だ。冒頭で述べた12月の災難に加えて、だ。社会は私をなかったことにする。穏やかにかつ鋭く私を傷付ける。透明にする。私は嘘を重ね、私を滅ぼしていく。とてもじゃないけれど、素性を明かせるような環境じゃないからだ。


私が百合で創作しているのは、私が私を生きて良いと認めるいわば自己肯定のためなのに、今やそのエネルギーすらも危うい。書こうとすると、上の言葉がちらついて、頭が動かなくなる。脳が拒む。悔しい。


だからこそ、今は百合夢と逆であり裏であり対偶である「男と男の」「フィクションに於けるキャラクター同士の」巨大感情をただ「眺めて」いることにどうしようもない救いを求めているのだろう。百合夢を書く私にとって男と男の巨大感情の傍観はまさに対岸の火事のようなものだ。私はそれを、フィクションであることを免罪符に無責任に消費する。そうすることでしか現実の苦痛を忘れることができないからだ。

 

だから私は今日も、五条悟と夏油傑にキレている。キレるために劇場に足を運ぶ。それが今の私の最大の特効薬だ。

 

p.s.

夢小説ですが、最近全然更新できてなくてすみません。連日映画館にいることに加え、上記の理由で筆が止まっている状態です。落ち着くまでもう少し時間がかかりそうです。今は消費者としてバカ騒ぎして、元気になったら戻ってくる予定です。転職も視野に入れています。来年の目標は会社の人を殴れそうな分厚い百合本を作ることです(※ジャンル未定)。しばらく創作できるか分からないけれど、文章を書くことは好きなのでこういったエッセイとかブログとかはちまちま書いているかもです。引き続きどうぞよろしくお願いいたします。

 

そして、2021年もありがとうございました!良いお年を!!!