内省的な自己反省

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感想文:映画『怪物』

 

『怪物』を観てきました。制作陣は一言も言及していない、むしろネタバレしないでほしいと言っている横でカンヌのクィア・パルムを受賞していることが見ようと思ったきっかけでした。この時点で最悪。どうせ文句を言うなら見てからにしようと、会社の帰り道に、観ている途中で具合が悪くなっても途中で抜け出せるように通路側の席を買って劇場入り。


感想を述べる前に、軽く私のことについて。私はいわゆるLGBTQ+の中に含まれるレズビアンです。女の人が好きな女です。だから恋愛感情を抱くのは対女性だし、創作をする際は女の子のキャラクターで書く機会が圧倒的に多い。女の子の方が解像度高く書けるし、楽しい。そういう人生を送ってきました。ただ、社会人になってから上司の「彼氏はいるの?」「男の人紹介しようか?」等の発言がきっかけでメンタルを崩して休職して、病院にもお世話になった経験があります。今回はその経験込みでの感想文であること、いちレズビアンとしての感想文であること、そしてこの映画がマイノリティ側にはこう映った、という見方としての感想文です。あらすじなどは省きます。

 

まずこの映画を「ネタバレなしで観てほしい」「前情報を入れずに観てほしい」と言えて、その状態で楽しめた人たちの中でどれだけ自分が特権階級にいること、安全な場所にいることに気付いているのだろうと思いました。すずめの戸締まり公開時に「緊急地震速報と似た音が流れる」「震災を思わせる描写がある」「だから無理しないでね(意訳)」と公式からアラートを出していたと思うのだけど、今作にも同様にアラートを入れてほしかった。私はあらかじめ他の方の感想等を覗いてある程度覚悟を持って観て、それでもしんどかったけれど、本当に何も知らない私と似た境遇の方が見たらどうなるんだろう、制作陣はやっぱりこの世界で生きるマイノリティのことは考えていないのかな、なんて思いました。いい加減私たちのことを創作のダシにするのやめてもらえません?ってなるよこんなの。

 


物語は3つの章に分かれて進みます。湊の母を軸にした章、湊の担任を軸にした章、最後に湊と依里を軸にした章。3つの異なる視点から、それぞれに見える世界は当たり前に異なることは勿論、学校という組織が組織として機能していないことの酷さ、コミュニケーションの齟齬とそこから生まれる綻びを描きたかったのだと思う。私たち観客は、それを三人称の視点でありがたくも「面白く」目撃することになる。目撃することが許される。なぜなら私たちはスクリーンの向こうにいる安全な観客だから。実際に映画としては面白かったのだと思う。

けれど、エンドロールが終わった後に「この物語の中におけるあらゆる要素が現実世界の問題と地続きであることに、どれだけの人が気付くのだろう」と考えて、落ち込んでしまった。湊と依里の関係を、『怪物』という物語の中にだけ存在する「美しいなにか」で留めている者も多いのではないだろうか。そう考える度に、具合が悪くなる。

 

『怪物』は、制作陣なりに踏み込んだのだと思う。けれども制作陣がそれについて一切言及しないこと、「人間が持つ普遍的な感情」と言い切ってしまうこと、あらゆることに落胆する。それは劇中に湊と依里のアイデンティティと関係性を肯定する大人が出てこないことにも言えることだ。むしろ「病気」扱いする大人も出てくる。実際問題未だにそういう見方をする大人も大勢いるんだと思う。私も当たり前のように異性愛者として話を吹っかけられた経験があるから。それでもやっぱり肯定してほしかった。肯定の描写があることによってどれだけの人が救われたかな、なんて思ってしまう。唯一の救いは、湊と依里が生きていたことだ。悲劇的な終わりを匂わせるシーンから一転、最後のシーンで光の中を駆けていく二人はとても眩しかった。だからこそ、彼等のことを肯定してほしかったし、悲劇なんて知らない世界に連れ出してほしかった。

 


私はこの映画のタイトルが『怪物』である理由が未だに分からない。『怪物』が劇中で何を指すのかが分からなかったからだ。唯一心当たりがあるとすれば湊が教室中を蹴散らすシーン、もっと言えば湊がそうせざるを得なかったほど湊の心の中に渦巻く感情を指すのかもしれないと思ったけれど、その感情そのものを『怪物』と名ラベリングするのはあまりにもナンセンスだ。だから私は、私を含めて『怪物』と名乗らせたがる大人を『怪物』と呼ぼう。

 


それにしても湊と依里を小学校五年生に設定したのは良くも悪くも絶妙な采配である。湊と依里の感情や関係性について大人たちは言い逃れしやすいのだろう。だから簡単に「人間が持つ普遍的な感情」と言えてしまうのだろう。小学五年生といえばまだ自己が確立されていない、自分の感情を明確に言語化するには語彙も経験も浅い時期かもしれない。けれどそれに甘んじて全てを曖昧にすることは、未来ある子ども達への冒涜ではないだろうか。湊と依里は自分たちのことに気付いていただろう。現実世界でも早い子は既に気付いているだろう。まだ気付いていない子ども達だって、数年の時を経て気付くだろう。だからこそ、強く強く、肯定してほしかった。

 


私の周りでも『怪物』に興味を持って観に行っている人がいる。インスタのストーリーで軽く感想を述べている人もいる。個人の感想はそれぞれあっていいと思う。けれど明らかにマジョリティ側にいる人の「面白かった」だけで終わる感想文に落胆して、絶望する自分がいる。だからどうか、『怪物』という物語を「美しいなにか」だけで終わらせてほしくないと切実に思う。

 

 

いつかその感情を、恋だと肯定できるその日が来ることを願っている。